プロフィール

Kozaki + Yoshino=Shohei

 
profile

  

グループ展

2006年 トウキョウワンダーウォール2006

2013年  第8回タグボートアワード

          SHOHEI×2展 /大阪 橘画廊

2018年  シェル美術賞展 大坂審査員入選

2024年  第9回Artist meets Art Fair KOBE ART MARCHÉ

 

個展

2008年 Oギャラリーeyes/大阪

2012年 ギャラリー椿GT2/東京

2016年 ギャラリー風/大阪

2018年 ギャラリー風/大阪

2019年 GALLERY b.TOKYO/東京

2023年 GALLERY b.TOKYO/東京

整理をしていたら久しぶりに昔の写真が出てきた、これはいつのだろう、、、子供の時の写真は幼いのである程度時代は絞れるが、これ私なのか?と自分の顔も認識できなかったのに驚く。その時その時は覚えているし自分の顔もわかっている。しかし時が経って改めてみると変化に気づく。そして、思い出す…朧に、、、。目の前に写真はあれどやはり朧にしか思いだせない。夢のようだ、、、。

 確かに現実で起きたことなのに、どうすれば留めていられるだろう、どれだけ覚えていられるだろう。

私は、私が見た素敵な景色や場面を、タグ付け、お気に入りのように色々出会った風景をカメラに収める。そして、思いだせるよう、覚えていられるようにマーキングすることにした。今は、プリントした上にペインティングを行っている。

 

描く、掻くは『かく』の語源にあたると聞いた。

掻くは、爪で引っ掻いたり、石や木で字などを刻んだりする原初的な行為だ。

例えば熊が木に爪痕を刻むマーキングは縄張りを示し、存在を周りに伝えている。

人も同じ様に木や石・土に字や模様を刻むことで何かを示したり伝えたりすることをしてきた。そういえば、人が観光など行って何処かに落書きをするのは、縄張り意識が残っているせいなのかもしれない。

これも一種のマーキングなのだろうかと考えてしまう。とりあえず残そうとする行為は動物の本能、又は習性なのだろう。

 この一連の流れ(行為)により、私はそれらをより「みた」と感じそして私はより現実に近づけるだろう。

 

 写実画、点描画、抽象画、スーパーリアリズム、etc、現代の技術力があればいくらでも機械が再現してくれる時代の中、描くことの意味、必要性は薄れたのかもしれない。

絵画は物語など記録するツール、役割を担っていた。が写真の登場以降、画家は目に見えるものだけではなく、そのまわり、目に見えないもの(観念や概念的なもの等)へと対象を移していく。そういったものも絵画の画題に含まれていった。 

 

逆に写真は見るものをすべて*並列的に記録し、余計な観念を剥ぎ取り根本・本性を絞り込む特性がありそれを生かしてきた。

  だが今では写真も絵画と同じく目に写るものだけではなく目に見えないものを写そうと表現を広げてきた。であれば絵画とは使う道具が違うだけとなるのであろう。

もとは画家のスケッチの補助道具として用いられていたが、印画紙が発達してからは分かれていった。だが当初は*紙の上に写る光景の輪郭をなぞって描いて絵画になっていったのだ。つまりまた絵画と交わってもおかしくはない。

 

*原人間にとって「線」の対象は地平線であり木であり、円と思えるものは太陽であり月である、あるいは曲線と思えるものは川であり海岸線である。そして、ある日ある時向こうにある木々や、川の曲線を手でなぞった。木の線と手の線は目の前で一致して、一瞬木が消える。この時「私は見ている」と意識する、そして見たことを残そうと記憶、記録してきたのだと思う。

そうしたことから、プリントした上に描くという一手間を加えることで必要性や意味も自ずと生まれ、ただ描くことの良さを改めて感じることも出来るのではないか。

今のカメラ技術(デジタル写真)と絵画(Painting)を使ったら新たなるものに出会えると思った。

 

撮ること、描くこと、互いの事実を重ねることでより確かな事実を手繰り寄せていく。

それは私にとって新たなrealとなるはずだ。 

 

 

*参考資料「自然の鉛筆」、「二十一世紀精神」より引用

 

                                                                                                         2023.shohei

投書

どこかで見たことがあるような風景。でも、そこには手が加えられている。人影は塗りつぶされて表情は分からず、加えられた色彩は少し浮いて見える。これは私が知っている…いや、見たことのない景色だ。

元は写真なので、ある意味では手彩色写真とも呼べるだろう。見たままの世界の現実感を通り過ぎ、より印象に強く残るように加工された世界。被写体は作家自身が実際に出会い、ふと目を向けたものたち。何気ない景色が作品の土台であり、始まりになっている。

作家自身は、作品を作る過程で自分の記憶をなぞり、自分にとってのリアリティを確かめるような感覚があるのだと話す。

あるものは強調され、別のあるものは薄れていく。確かにそれは人の記憶のようでもある。時間の流れの中で曖昧になっていく記憶、その映像。その変化を留めようと(あるいは加速させようと)して、私たちは今も自分の記憶を加工し続けている。

そう考えると、私が記憶の中で「現実」だと思っている景色は、私がいつの間にか作り変えた「加工された現実」なのかもしれない。それを気付かせるヒントがこの作品には含まれている。

毎日目にしても忘れているものたち、そもそも“見た”ということさえ気づかず過ごしている世界。私たち自身もまたその一部であり、いつかは忘れられていく。

移ろいゆく日々のはざまで、自身も移ろう存在である作家が、目にした世界の断片に手を加えることで小さな実感を手にしようとしている。そして、願わくばその世界は肯定できるものであってほしい、私にはそんな思いが感じられた。

 

                         ある日の被写体

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一つ一つ確かめながらなぞる。
形を色を空気を記憶を辿りながら
しかし現実の景色から徐々に離れた景色が現れる。
脚色しているわけではない。
写真がノンフィクションとすれば
絵画はフィクションと言えるが
今では写真もフィクションになる時代だ。
だが確かにその場で撮し録ったことは事実である。
そして描くことはその体験が反映するため
フィクションとは限らない。
撮ること、描くこと、互いの事実を重ねることで
より確かな事実を手繰り寄せる。
それは私にとって新たなrealとなる。

                            2019.09.23

 

 世界を触知する

 

 

  吉野昇平さんが写真に手を加えるのは、写真という手の届かない場所に収められた事物を、こちら側に、つまりヒトの側に接続する行為なのであろうか。

 

 〈在る〉ものを写し取った平面に手を加えることで現前した画像は、私たちの感性に少しの違和を催す。あるいは違和ですらないかもしれない、ほのかな感覚を催す。その現象は、〈自〉と〈他〉の、こういってよければ世界の境界線上で起っている。

  

 

 以前は植物がモチーフであったが、新しいシリーズでは折り紙である。

 

 

 折り紙とは、ただ一枚の平面体としての紙に、固い別の平面体に支えられたりしながら、手で力を加えることによって形を現出させる遊び(改めて言葉にする必要がないほど自明ではあるが、現象をなぞってみるならば実はさほど自明ではないことに驚く)。

 

 それを写真に収めたものの表面に、スクラッチやペイントで手を加える。制作のプロセスに、以前にもましていっそうの工程が重なったシリーズといえよう。

 

 このシリーズの鑑賞は、構図や色彩や形象、配されたモチーフにただ自由に感性をさらすこと、ただそれに尽きる。しかし視覚を通じて像が印象づけられるやいなや、色や形、手の動き、といったプロセスをほどいてゆく愉しみが訪れるかもしれない。あるいは少しの謎が、目や心を戸惑わせるかもしれない。鑑賞という行為それ自体が目と心の快楽でありつつ、やがて吉野さんの造形論理を理性的に読み解いてゆく時間が訪れる。情緒的なものが喚び醒まされたり、意味といいうるものが浮かび上がるかもしれない。

 

 ここには性急なものや、鑑賞者を急き立てるものはなにもないが、催された少しの違和(あるいは違和未満のほのかな刺激)が感性に対して効果的な働きを持っていることは確かであろう。

 

 かたどる手とかたどられた形、無機的なものから有機的なものへの生成、その情景。そこから媒介される印象は、客体であるという布置を越えて一方的にこちら側に迫ってくることがない。これは紛れもない優しさである。

 

 ここにある吉野さんの営みは、吉野さん自身にとっての存在証明であると同時に、私たちが世界に日々残してゆく痕跡、その営みの喩でもある。

 

 そうして世界を触知する〈私たち〉という存在の複数性への回路が、ゆっくりと立ち現れるのだ。

 

 そのとき〈私たち〉は、このささやかな営みがもたらすものに、この上ない安心感を覚えることだろう。

 

                          

 

 京谷裕彰(詩人・批評家)2018.8 

 

『視覚言語としての写真・絵画』加藤義夫(キュレーター/美術評論家)

 

  

 今日、人は毎日のように写真を撮影して、Facebookやツィッター、ブログにあげて楽しむ。デジタルカメラが内蔵されたスマートフォンの普及で、新しいコミュニケーションの方法が一気に広がり一般化したともいえる。絵を描くよりも文章を書くよりも簡単で手軽だ。そこには画像が、視覚言語として発達し、展開しはじめた感がある。視覚情報は五感の中で圧倒的に飛び抜けていて、情報の約80%以上を占めると言われている。ちなみに聴覚は10%前後だ。

  

 今や「写真は言葉」なのだ。その言葉に加工を施すのが、吉野昇平(1984年大阪生まれ)さんだ。スクラッチという引っ掻き傷のような方法で。

 

吉野さんの記述に「これも一種のマーキングなのだろうかと考えてしまう。」は、

 

いわゆる、テリトリーという縄張りや居場所の確保を意味している行為ともいえる。自分自身の領域を示すための行為なのだ。その領域とは精神的な意味のテリトリーだ。

 

 撮影された写真の内容は樹木や草花が多い。優しさに包まれた自然の世界に彼の手が差し伸べられる時、人為が働き絵画化する。筆者が最初に目撃した時は、一瞬、写真かスーパーリアリズム絵画か、判断がつかなかった。

 

それほど絵画的なのだ。それもそのはず、吉野さんは大阪芸術大学芸術学部美術学科で油絵を学んだ。画家のまなざしが、写真を支配している。

 

 個展案内状の作品「Nokeitou」は、どこまでが写真でどこまでがスクラッチが見抜けない。そしてその写真は、絵画でいうところの地と図の関係が絶妙だ。被写体を捉え写真撮影をして、プリントアウトするまでは、構想の段階に違いない。膨大な量の写真から選びとられたものだけが、次の段階に移行する。プリントアウトされたものにスクラッチを施す段階は、絵画で言うところのドローイングであろう。樹木や草花が持つ自然の形に手を加える。視覚言語をスクラッチすることで触覚的にその存在を確認する行為、そこに自ずと対話が生まれる。それは写真という支持体に描かれた、絵画へのひたむきな態度なのだ。

 

                                         2016.9